2012年7月20日金曜日

「中国化する日本」:議会民主主義はもはや限界?

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レコードチャイナ 配信日時:2012年7月20日 7時43分
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=63005&type=0

<書評>「中国化する日本」
宋はグローバル化の先進国だった
―議会民主主義はもはや限界?


アジアで唯一初めて近代化=西洋化に成功したのが日本で中国をはじめ他のアジア諸国は遅れた―。
與那覇潤著「中国化する日本」は、という通説に疑問を投げかけ、12世紀の源平合戦から最近の政権交代まで1千年の日本史の光と影を大胆に綴った骨太の歴史物語である。

現代世界の諸制度や社会産業構造が、
宋代(960年~ 1279年)の中国において既に実現
されており、
「産業革命以降の西欧はその後追いで『中国化』していった」
というのが本書を貫く主張だ。

現在のグローバル化の果てにあるものは、「中国的」と言える一元化された政治システムによる支配と、その上で可能になる自由かつ多様な経済・文化活動を特徴とする社会ではないか、と予測する。
そこでは日本の江戸時代のような「ムラ社会」も戦後日本のような「家族主義的企業」も中間共同体としては機能せず、血縁など個人的なネットワークが重んじられるようになる。
唐代の貴族中心の封建政治を打破してつくられた
宋以降の千年に及ぶ中国史は、グローバル資本主義下の社会経済モデルの「宝庫」
と位置づける。

著者はこうしたグローバル化=中国化の流れと、これに対抗する鎖国という2つの流れの力関係は、12世紀から日本史を決定づけてきたと強調。
特に、日本の戦後史を彩る、戦後の社会党政権、田中角栄政治、細川内閣、小泉改革など特異な政治事象に鋭く切り込んでいく。
民主党政権交代の熱狂と失望、橋下(大阪維新の会)現象、原発再稼働デモなど最近の事例と照らし合わせると、議会制民主主義の限界も浮かび上がる。

世界で千年単位の「中国化」が徐々に進行しているとすれば、その実態の把握は、日本が直面する諸問題を考える上で有用だ。
順調に「西洋化」したはずの日本の閉塞と、
逆に「近代化」に落伍したとみられた中国の不気味な台頭を、
分かりやすく説明してくれる。

アジア太平洋の経済連携、憲法九条、外国人参政権などが「中国化」への対応策になり得るとの視点も新鮮だ。
明治以降の碩学が書いた参考文献を数多く紹介。
軽妙な政治談議や関連映画の紹介も魅力的。
平易な語り口で政治、経済、文明すべてを網羅し、大胆な「世界図式」を構想した野心作といえる。
(文芸春秋刊・1575円)(HY)

[注]「<著者が語る>直接統治「一君万民」への流れが高まる―「中国化する日本」執筆の與那覇潤氏」に続く。
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<著者が語る>直接統治「一君万民」への流れが高まる
―「中国化する日本」執筆の與那覇潤氏
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=63084&type=0

2012年7月、話題の書「中国化する日本―日中『文明の衝突』1千年史」の著者である與那覇潤氏は日本記者クラブで、自著について語った。

「日本では、間接民主主義(議会政治)への不信が高まっている」
と指摘した上で、最近の橋下大阪市長による「大阪維新の会」への人気集中、石原東京都知事提唱の尖閣諸島購入を目的とした寄付金集め、首相公選制への高い支持率などを事例に挙げ、「統治者と国民の間の「介在者」を排除して直接政治体制を希求する『中国化』の動きが進行している」と強調した。
発言要旨は次の通り。

中世の昔から日本は
「グローバル・スタンダードに合わせるのか、日本独自の道をゆくのか」
で揺れてきて、源平合戦も南北朝の動乱も、これをめぐる争いだった。
当時、ヨーロッパは後進地域だったので、「グローバル・スタンダード」は「中国標準」のことだった。

日本の歴史でいうと中世に当たる宋代以降の中国の国内秩序と、現在の「グローバリズム」の国際秩序は、よく似ている。
形式的には「機会平等」となる条件で自由競争していることになってるが、実態としては権力の「一極化」や富の偏在が起きている。
そういう中国=グローバル社会のあり方を受け入れるか否かで国論が二分された。
このため日本の中世は激しい内戦状態だったが、結局、「受け入れない」という結論を出したおかげで、近世には平和になった。

江戸時代の「徳川文明」ができ、「日本の国民性」とか「日本らしさ」のようなものはこの時、「中国化」の影響力から脱することで初めて可能になった。
日本人にとっては居心地がよかったので心のふるさとになった。

明治維新で制度改革や産業革命を断行して競争社会に変革したが、その後の「昭和維新」では農村を救えとか、ブロック経済で雇用を守れとかが主流となって国家統制国家に戻り、「再江戸時代化」された。
戦後も高度成長で地方から人が都会に出てきて大都市圏に集中すると、田中角栄の列島改造とか、竹下登のふるさと創生事業とかで、『古き良き地方社会』のイメージを守ろうとする。
小泉改革であれだけ規制緩和とか自由競争と叫ばれたのに、小泉首相が辞めたらあっという間に元に戻った。

今日のグローバリゼーションの核にあるとされる「西洋文明」とは、新参者として後から割り込んできたものだ。
ある面では中華文明に似ているが、他の面では日本文明に近い。
その結果として、20世紀の半ばまでは日本文明のほうが相対的にうまく適応していたが、冷戦が終わる頃から、「停滞する日本」と「台頭する中国」という構図が出現した。

江戸時代は基本的には農耕文明で、そのムラ社会を護送船団方式や日本的経営に改装することで、工業化にも適合させたのが昭和期の「再江戸時代化」だった。
資本主義が金融化・情報化・サービス産業化していくとついていけなくなった。

大阪維新の会への人気は橋下徹さんというカリスマ個人への期待だ。
複数の国政政党が、全国レベルでマニフェストを出し合って論争したが、行き詰っている。
これとは別に地方の首長選挙があり、まず橋下さんという「トップ」一人だけを地域の住民が担いでいる。
それを見て「民主主義の危機」と騒ぐ人たちもいるが、ある意味で中国的な「民主主義」といえる。
皇帝一人に権力を集中して、その人が既得権益者を排除する。
伝統中国では、「選挙」といえば、一人一票で議会の議員を選ぶ投票のことではなくて、皇帝の手足になるスタッフを試験で選抜する科挙を指す。

中国では、貴族が支配していた唐までの既得権益社会を宋がぶち壊し、世界で初めての身分の平等の体制をつくった。
これ以来「一君万民」の時代が続いている。
今は共産党政権だから「一党万民」と言える。
中国の現在の「一極専制」体制は共産党政権ゆえではなく伝統的なものだ。
「国家資本主義」は中国の伝統に合致している。

日本では、間接民主主義(議会政治)への不信が高まっている。
「橋下人気」だけでなく、石原新太郎東京都知事が呼びかけたの尖閣諸島購入のための寄付金集めも、統治者と国民の間の「介在者」を排除した直接的な政治体制を希求する動きといえる。
首相公選制に日本の世論の6割以上が賛成しているが、実現すれば「中国化」になる。
原発再稼働反対のデモが官邸を取り囲んだり、住民による国民投票請求が続出している。

生活保護費の問題が政治家の手によって公開裁判のような形となったのは、もはや3権独立の法治国家ではなくなりつつある事例と言える。
最近では政治家だけでなく裁判官・検察も信用されていない。

西洋化と中国化のうち、好ましいのは西洋化だが、日本は蓋然的に中国化の道をたどるのではないか
西洋化していると思いこんでいる人が多いが、実際は中国化している

独ワイマール憲法時代のドイツの法学者、カール・シュミットミットは間接議会制の問題点を次のように喝破している。
「近代の大衆民主主義は、民主主義として統治者と被治者の同一性を実現しよう努めるものであるが、
議会制は、その行く手に、もはや理解し得ない、時代遅れの制度として横たわっている」。




本の話web  2011.12.14 08:00
http://hon.bunshun.jp/articles/-/445



「西洋化」に代わる物語を
『中国化する日本』 (與那覇潤 著)


聞き手「本の話」編集部

発売後1週間で増刷が決まるなど、『中国化する日本 日中「文明の衝突」一千年史』(11月刊)が好調である。
著者の與那覇潤さんは弱冠32歳の大学准教授。
本書は著者のふだんの講義内容をまるでライブ録音そのままに、会話体で書き下ろしたものだというが、タイトルにある「一千年史」のとおり、院政の開幕/源平合戦から政権交代/ポスト3.11まで、1000年超の日本史すべてを斬新な視点で論じ切る内容が話題になっている。その狙いや執筆の舞台裏を、與那覇さんに語っていただいた。

――與那覇さんの本来の専門は明治時代の沖縄問題(*『翻訳の政治学』 岩波書店 2009)で、前著で扱っているのは昭和の戦争(*『帝国の残影』 NTT出版 2011)と、これまで近現代史の分野で研究をしてこられました。
それが今回はそもそも、どうして一人で1000年分も書こうと思ったんですか?

與那覇:
普通じゃないですよね(笑)。
ただ、従来からよきにつけ悪しきにつけ、日本の近代化って「特殊」だ、といつも言われてきた。
「よき」の方は「アジアで唯一の列強入り」や「奇跡の戦後復興」であり、「悪しき」の方は「歪んだ軍国主義」とか、「民主主義の不成熟」とか。
でも、そういうこと言うならじゃあ、日本の近代化の歩みはいつどこで「歪められた」のか。
その「特殊さ」の起源をつきつめて考えていくと、結局そこまで遡らないといけないことに気づいたんです。

――遡るといっても、普通の本なら明治かせいぜい幕末までで、日本が「欧米列強」と比べていかに「特殊」かを説明してゆくわけですよね。
ところがこの本だと、なんと源平合戦まで戻っちゃうから、比較の対象も欧米ではなく中国に。

與那覇:
はい。
たとえば先日の*TPP論争でも「開国」や「黒船」にたとえられて、「どうして日本人はグローバル化がヘタなのか」とか、逆に「そもそもロクなもんじゃないグローバリズムに日本が合わせる必要があるのか」とか、議論されてましたよね。
でも実はこれって、今に始まった話じゃないんですよ。
中世の昔から日本は「グローバル・スタンダードに合わせるのか、日本独自の道をゆくのか」で揺れてきて、源平合戦も南北朝の動乱もある意味、全部それをめぐる争い。
ただし、当時はヨーロッパなんて後進地域だったので、その「グローバル・スタンダード」は「中国標準」のことだった。

――それがタイトルの『中国化する日本』の由来なわけですね。

與那覇:
そうです。
第1章(※期間限定で無料ダウンロード実施中。2012年2月5日まで)に書いたことなんですけど、実際、日本史でいうと中世の年代に当たる宋朝以降の中国の国内秩序と、現在賛否両論の「グローバリズム」の国際秩序は、すごく似ていて。
よく言えば徹底的な競争社会、悪く言うと弱肉強食の格差社会で、形式的には「平等」な条件で自由競争していることになってるにもかかわらず、実態としては猛烈な権力の「一極化」や富の偏在が起きている。
そういう中国=グローバル社会のあり方を受け入れるか否か、で国論が二分されたから、日本は中世のあいだはものすごい内戦状態だったんだけど、結局、「受け入れない」という結論を出したおかげで、近世にはピタリと平和になって…。

■中華文明・日本文明、1000年の構図

――江戸時代の「徳川文明」ができたと。
いわゆる「国民性」とか「日本らしさ」のようなものはこの時、「中国化」の影響力を脱することで初めてできたんだ、という点を本書は強調していますよね。
そして、それがあまりにも日本人にとっては居心地がよかったので…。

與那覇:
心のふるさとになってしまって、疲れるといつもそこに帰りたがる(笑)。
自分の本では「再江戸時代化」という言葉で表現している部分です。
明治維新で産業革命をやってガバッと競争社会にしたけど、「昭和維新」では農本主義で農村を救えとか、ブロック経済で雇用を守れとかで、ガチガチの国家統制に戻しちゃう。
戦後も高度成長でガンガン人口が都市に出てきて根無し草になると、田中角栄の国土の均衡ある発展とか、竹下登のふるさと創生事業とかで、やっぱり『古き良き地方社会』のイメージを守ろうとする。
小泉改革であれだけ規制緩和だ自由競争だと言ってたのに、彼が首相を辞めたらあれよあれよという間に昭和ブームが起きちゃって、
「やっぱり、ちょっとくらい不自由でも我慢しあって生きてくのが日本人だよ」
みたいな(笑)。
これは結局、中世の頃に「中華文明」を取り入れかけたんだけど、結局それについていけなくて別の道を選んだ、*日本文明というものの体質の表れなんです、よくも悪くも。

――サブタイトルにある『日中「文明の衝突」一千年史』というのも、そういう含みがあるわけですね。
元寇や日中戦争のような、両国が直接「軍事衝突」した事例だけではなくて、中華文明と日本文明という二つの文明が、東アジアでパフォーマンスを競い合った1000年間という構図で描かれている。

與那覇:
その通りです。
逆にいうと、今日のグローバリゼーションの核にあるとされる「西洋文明」というのは、新参者として後から日中に割り込んできたわけ。
しかもコイツが曲者で、ある面では中華文明に似てるのだけど、他の面では日本文明に近い。
その結果として、20世紀の半ばまでは日本文明のほうが相対的にうまく適応していたのですが、冷戦が終わる頃から、昨今かまびすしい「停滞する日本」と「台頭する中国」という構図が出てきちゃった。
江戸時代って基本的には農耕文明で、そのムラ社会を護送船団方式や日本的経営に改装することで、工業化にも適合させて「延長」してたのが昭和期の「再江戸時代化」だったんですけど、資本主義が金融化・情報化・サービス産業化していくと遂についていけなくなった。
最初は
「COOL JAPANで世界市場を席巻だ!」
とか言ってたはずが、今や「韓流やK-POPに国内市場を盗られる」とかいう話になってるでしょう(笑)。
西洋文明のうち中華文明に近い方の側面がグローバル化で前面に出てきたから、中国・韓国の方がうまく乗っかっちゃってるわけですね。

――そして『中国化する日本』ということは、1000年間の戦いを経て、最後の勝利者は中国に…?

與那覇:
いえ、そうは断定していないんです、よく誤解されてるみたいですけど(笑)。
むしろこれまで長いこと、「西洋化」とか「グローバル化」とか言われると、あたかも自明に「いいもの」だとか、
「欧米先進国に並ぶためにやらなくちゃいけないこと」
みたいに見えちゃってたわけじゃないですか。
でも、「それ、実は中国化かもよ」って言われたら、ちょっとギョッとなるというか、少なくとも、
「いったいその内実が何で、どんなメリットとデメリットがあるのか、きちんと判断してから考えよう」
とは思いますよね。
それこそが今の日本で必要な態度だと思うし、実際、近代以降「西洋化」してきたと言われてる日本だって、実のところは「中国化」しかして来なかったんじゃないかとも言えるので…。

■政治に失望すると授業が人気に?

――本当ですか!? たとえばどんな…?

與那覇:
今の政治なんか典型じゃないですか。
本書が出て1週間後に、ダブル選挙で大阪維新の会が勝ちましたけど、これってもう政党どうしの争いではなくて、橋下徹さんというカリスマ個人への期待ですよね。
複数の国政政党が、全国レベルで日本をどうしたいかというマニフェストを出し合って、その一環で地方の首長選挙があるわけじゃなくて、まずは橋下さんという「トップ」一人だけを地域の住民みんなで担いで、後はその人気や権勢にぶら下がりたい人たちが議員としてついてくればOKと。
もちろんそれを見て「民主主義の危機だ」って騒ぐ人たちもいるけど、ある意味これって中国的な「民主主義」なんですよ。
皇帝一人を推戴して、その人が既得権益者をバッサバッサとなぎ倒すのをみんなで応援しようと。
だから伝統中国で「選挙」といえば、一人一票で議会の議員を選ぶ投票じゃなくて、皇帝の手足になるスタッフを試験で選抜する科挙のことなわけです。

――つまり、日本が「西洋化」してきたと思っているから混乱するけど、「中国化」してきたんだと思えば、しごく当然の帰結であるということですか。

與那覇:
そうそう。
国政レベルだってそうですよね、盛り上がるのは「誰を次の総理に」でトップのクビをすげ替えるときだけで、替える理由もよく分からない。
政策を転換するために交替させるっていうよりも、支持率が落ちてきて「人徳がないから」とかなんかそんな感じ(笑)。
国会の審議や政治報道だって、与野党間で政策を競うよりもスキャンダルをつつきあう方が注目が集まるから、ゴシップ記事みたいな話ばっかりじゃないですか。
要するに「政策的にとるべき選択肢は何か」の議論と、「道徳的に優れた統治者は誰か」の議論を区別できてないわけで、近代西洋型の合理主義というよりも、儒教の道徳原理に支えられた伝統中国の徳治主義のほうに近い。

――これまで自民党の長期政権が続いてきたあいだは、日本の民主主義は政権交代がないから「特殊」でダメなものだと言われてきて、だから2009年に民主党政権ができた時には一見、「これでヨーロッパに追いついた」となった。
しかし、実際の日本は「西洋化」するどころか「中国化」していたので、今日の体たらくに…。

與那覇:
それがまさに本書の隠れモチーフですね。
実は、この前も学生さんと笑いあったんだけど、自分の授業の人気って政治への期待と反比例するらしいんですよ(笑)。

――本当ですかそれ(笑)?
「授業」というのは、本書のもとになった…。

與那覇:
まぁ、別に学問的に分析したわけじゃないんで、本当に当たってるかは分からないですけど、現にいちばん受講者が少なかったのが、2009年の鳩山内閣発足直後の冬学期で、なんとたった2人。

――2人って、講義録が出る授業がですか(笑)?

與那覇:
そうです(笑)。
逆に、その後半年経って民主党政権がグダグダになってきて、次の夏学期が始まる4月になると、普天間問題で誰の目にもぐちゃぐちゃになってたじゃないですか。
そうしたら途端に今度は教室が満員になって、ただの選択科目なのに過半数が受講する学年まで出てきちゃった。
しかも、明らかに教室の空気が一変したんですね。
それまでも受講生の態度が悪かったわけじゃないけど、明らかにみんなが積極的というか、表情が真剣というか。
今年も菅直人さんのおかげかどうかはわからないけど(笑)、やっぱりそういう雰囲気が続いています。

■西洋化とは全く違う「大きな物語」

――それはどうしてなんですか?

與那覇:
たぶん、「政権交代をすれば日本はよくなる」っていうのが、*日本に残っていた最後の「大きな物語」 だったと思うんです。
私たちは「西洋化」というよりよい道を歩いてきていて、自民党という邪魔者がそれに立ち塞がっているけれども、それさえ打ち壊せばなんとかなるんだ、っていう。
そういう「すでにインプットされている、一見なんでもそれで説明できそうなストーリー」――学者の用語で言うと「マスター・ナラティヴ」とか、「パラダイム」になりますが――が機能している状態だと、実は日本は西洋化じゃなくて中国化してるんだ、なんていう「マイナーなストーリー」を喋ったって、普通は耳に入っていかないわけで。

――なるほど。
逆に、これまでの「大きな物語」のウソがバレたから、これはちょっと、違う物語で説明してもらわないと、もうわけがわからないぞと。

與那覇:
そういうことだと思うんです。
実際、印象深かったのは、その受講者が一気に増えた2010年の夏休みに、まさしく日本人の中国イメージって一変するわけじゃないですか、尖閣沖漁船衝突事件。
自分は最初、これで「ああ、冬学期は学生減って元の木阿弥だな」と思ってたんですよ。
それまでも中国化だなんていうと、「中国は嫌いだから興味ありません」とか、「あんな遅れた国に日本がなっていくなんて意味不明」みたいな反応が絶対にあったし、北京五輪と関連してチベット問題がお茶の間のニュースになった頃から、やっぱり中国語の履修者がガクンと減ったっていう先生の話も聞いたことがあったんで。
ところが、まさに尖閣問題沸騰のさなかに教室に出ていったら、ほとんど減ってない。
「ムカツク中国の話なんて聞きたくない」じゃないんですよ。
むしろ「どうなってるんだ、説明してくれ」という意欲の方が強かった。

――随所で従来の右翼/左翼の歴史観をバッサリやっているのもそのためですか。
学者が書いたカタめの参考文献を数多く紹介する一方で、時事ネタに引きつけたべらんめえ調の政治談議が豊富なのも、本書の珍しいところですよね。

與那覇:
マスメディアに載る歴史のニュースや一般向けの歴史の本に、
「右の歴史と左の歴史、さぁ正しいのはどっち?」
的な煽り方のものが多いせいで、学生さんも含めて勘違いしてしまう人が多いんですけど、それって今や学問的な歴史の議論とは、完全な別物なんですよ。
そもそもこれまでの右翼/左翼って、大雑把にいえば人類がみんな「西洋化」していくというウソの物語に乗っかった上で、
「日本も『もう十分に西洋化した』と威張っていいのか?」
とか、ちまちましたことを争ってきただけで。
あるいは、
「西洋化の結果として、われわれ日本固有の伝統を失っていいのか?」
みたいな議論もあったけど、でも、現に西洋化うんぬん以前に中国化しかしてないんだったら、決定的にピントがズレてるわけですね。
本当に面白い歴史はそっちじゃないよ、と伝えたいから、アカデミックな歴史の専門研究の紹介と、ベタな左右の論説の全否定とを、どっちも一冊でやっています(笑)。

――ひょっとすると本書を買っている人も、これまでの歴史観の賞味期限が切れたことにうすうす気づいて、新しい「大きな物語」を求めているんでしょうか。
「西洋化」していたはずの日本のいきづまりと、逆に「近代化」の劣等生だったはずの中国の不気味な台頭を、分かりやすく説明してくれるストーリーを…。

與那覇:
もしそうだったら、すごく嬉しいですね。
いま「大きな物語」っていうのは色んなところで評判が悪くて、たとえば歴史学者だったら
「実証性がなく大雑把すぎる。細かい事例の具体的な分析に基づいていない」という批判は当然あると思うし、評論の世界でも「これだけ『個人』が分裂し多様化した時代に、いまさら『国家』や『文明』みたいな単位で物語なんか語れるのか」
って言われても仕方がない。
あるいは3.11の原発事故や震災復興とか、もしくはそれ以前から格差問題や反貧困とかの現場にいる人なら
「まさにいま目の前にこんな問題があるのに、1000年分振り返ってみましょうだなんて悠長なことを言ってる場合なのか」
という印象を持たれるかもしれない。
ただ、自分は日本社会が大きな曲がり角にあるいまだからこそ、これまでのもの(西洋化)とは全く違う「大きな物語」(中国化)を立てて、いっぺん考えてみる必要があると思ってる。
大げさに言うと、それを通じて日本の針路を示せるかどうかに、「歴史」というものに今もまだ意味があるのかどうかが、懸かってると思うんです。

――ありがとうございました。




【ファジイ集合体国家】



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